祝島 神舞
神舞」神事伝承
今から千百十余年の昔、仁和二年八月、豊後伊美郷の人々が山城国石清水八幡宮より分霊を奉持して海路下向中、嵐に会い祝島三浦湾に漂着した。当時この地には三軒の民家があったが、生まれる子供は体が弱く生活は苦しかったが、彼らは一行を心からもてなした。その時に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を始めたことにより、以後島民の生活は大きく向上。それからそのお礼にと、島民は毎年八月に伊美別宮社に「種戻し」に欠かさず参拝をした。そして4年毎に伊美別宮社から二十余名の神職、里楽師を迎え、本島を斎場として神恩感謝の合同祭事を行うようになった。これが神舞神事の起源である。神舞では三隻の神船を中心に櫂伝馬船等、百余隻に及ぶ大漁旗で飾った奉迎船が織りなす、勇壮な入船・出船の海上神事が行われ、古式豊かに三十三種類の神楽舞が新調の苫で小屋掛けされた仮神殿で奉納される。(祝島HP歴史探訪より)
8月16日入船神事を見に行きました
人の多さ、に圧倒され 人の少ないところからの写真、、迫力にかけます
手作りの鳥居と灯篭、、
出迎えたい
設定を間違えて直したら、Wバランスが直し方がわからない
入船神事はこんな感じ,、暑さと人のおおさにへとへと
船から上がった神様は
明日の神楽のかいじょうにいどう
とっても充実したひでした
四偕楼
大島大橋
今から千百十余年の昔、仁和二年八月、豊後伊美郷の人々が山城国石清水八幡宮より分霊を奉持して海路下向中、嵐に会い祝島三浦湾に漂着した。当時この地には三軒の民家があったが、生まれる子供は体が弱く生活は苦しかったが、彼らは一行を心からもてなした。その時に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を始めたことにより、以後島民の生活は大きく向上。それからそのお礼にと、島民は毎年八月に伊美別宮社に「種戻し」に欠かさず参拝をした。そして4年毎に伊美別宮社から二十余名の神職、里楽師を迎え、本島を斎場として神恩感謝の合同祭事を行うようになった。これが神舞神事の起源である。神舞では三隻の神船を中心に櫂伝馬船等、百余隻に及ぶ大漁旗で飾った奉迎船が織りなす、勇壮な入船・出船の海上神事が行われ、古式豊かに三十三種類の神楽舞が新調の苫で小屋掛けされた仮神殿で奉納される。(祝島HP歴史探訪より)
8月16日入船神事を見に行きました
人の多さ、に圧倒され 人の少ないところからの写真、、迫力にかけます
手作りの鳥居と灯篭、、
出迎えたい
設定を間違えて直したら、Wバランスが直し方がわからない
入船神事はこんな感じ,、暑さと人のおおさにへとへと
船から上がった神様は
明日の神楽のかいじょうにいどう
とっても充実したひでした
四偕楼
大島大橋
by kari5181
| 2012-08-19 12:26